日本知的財産制度の創始者 高橋是清のこと

【高橋是清の心得】

問題解決の任務にあたる専門家(プロフェッショナル)に必要な心得とは何でしょうか。
その答えは、日本知的財産制度の創始者であり初代特許庁長官である高橋是清(たかはし これきよ)(1854~1936。81歳、二・二六事件で没)の人生からうかがうことができます。
高橋是清の残した言葉からの抜粋です(「随想録」よりの引用)。

「その職務は運命によって授かったものと観念し、天命に安んじて精神をこめ、誠心誠意をもってその職務に向かって奮戦激闘しなければならぬ。いやいやながら従事するようでは到底成功するものではない。その職務と同化し一生懸命に真剣になって奮闘努力することで、はじめてそこに輝ける成功を望み得るのである。」

「盛衰朽隆は人生の常である。順境はいつまでも続くものではなく、逆境も心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめることも出来る。境遇の順逆は、心の構え方一つでどうにでも変化するものである。」

高橋是清の人生は、これらの言葉を体現するものでした。
高橋是清は、安政元年(1854)に江戸・芝露月町(しばろげつちょう)の江戸幕府御用絵師 川村庄右衛門の家に生まれました(実際の出生地は実家ではなく、母親の静養先である江戸・芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)にある母親のおばの家と思われます)。諸事情から是清は生後まもなく仙台藩士(足軽)高橋家の養子となりますが、高橋家では貧しいながらも大切に養育され、特に祖母の喜代子からは優しく厳しく大きな愛情を受け、武士として熱心に教育されました。是清は慶応3年(1867)に14歳で仙台藩派遣の留学生として渡米します。
それからの高橋是清は、社会の底辺(米国留学中の奴隷的労働、ペルーでの詐欺被害・事業破綻)を経験し、また、日本の頂点(日銀総裁、蔵相(1回の兼務を含む7回)、首相(兼蔵相))も経験し、信じがたいほどの波乱万丈・激動・七転び八起きの人生で知られます。
是清は、大きな包容力・強い精神力・大胆な行動力・楽天性を持ち(また大変な酒好きで)、豪放らいらくを地で行く人であり、政治家としては「財政の神様」・「日本のケインズ」と呼ばれ、また、その豊かな風貌から「ダルマ宰相」・「ダルマ蔵相」・「ダルマさん」の愛称で国民に親しまれていました。現代の政治家や経済人たちからも深く敬愛されています。

特に有名なエピソードがあります。1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生した時、混乱の最中(4月19日午前11時)に首相拝命した田中義一はその足ですぐに赤坂表町(現赤坂七丁目)の高橋是清邸を訪れて、是清(当時74歳)に蔵相就任を懇請します。「この難局は、高橋さんの力倆(りきりょう)がなければ切り拓けません。わが国財界のため、海外の信用を取り戻すため、どうかご出馬ください」。老齢と病後で体調思わしくない是清でしたが、この依頼を受けて「三、四十日間という約束」で3度目の蔵相に就任します(のちに是清は「随想録」で、「私の見込みでは三、四十日で一通り財界の安定策を立てることが出来ると考えたからだ」と語っています)。是清はすぐさま各方面の情報分析を行ない、4月21日午前11時頃には2つの応急措置(一、21日間の支払猶予措置(モラトリアム)を全国に発布すること、及び、二、臨時議会を招集して台湾銀行救済と財界安定の法案を成立させること)を決定し、午後の閣議で各閣僚の同意を得ます。また、国民を一刻も早く安心させるために以下の声明書を発表します。「政府は今朝来各方面の報告を徴し慎重考究の上、財界安定のため徹底的救済の方策を取ることに決定しその手続に着手せり」。そして、モラトリアムを発動すると共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて預金者を安心させ、こうして金融恐慌をわずか44日で沈静化させます。是清の行なった措置は、「疾風迅雷のいきおいである」といわれました。是清はこんな言葉も残しています。「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、生きた財政は分からないものだよ。」
是清は、大きな包容力・豪放らいらく性・強靭で繊細緻密な知性・大胆な行動力を併せ持つ、全人格的に飛び抜けた、型破りで並外れた天才と言えます。

是清は、海外放浪(に近い留学)生活やいくつもの職業を経たのち、まず文部省、次に農商務省の官僚として商標制度・特許制度の制定に尽力し、また、外国の商標登録専売特許制度調査のために欧米視察を行ないました。そして、現在の特許庁長官にあたる農商務省専売特許局長及び特許局長の初代局長を務めました。
32歳の是清が赴いた上記欧米視察の日程は明治18年11月末から1年間にわたり、米国・英・仏・独の各特許庁を訪問し、欧米特許制度についての多くの貴重な資料と情報の収穫を得ます。欧米視察を終えて明治19年11月末に帰国した是清は、まず報告書を作成し、次に、商標条例・意匠条例・特許条例を起案します。条例案は参事院で審議され、審議難航の末、明治21年(1888)12月18日に商標条例・意匠条例・特許条例が発布され、翌年2月1日から施行されます。また、欧米視察から帰国後の是清は、それまで農商務省内に置かれていた専売特許局を廃止し、特許局を独立させるように各方面に陳情します。陳情の趣旨は以下の通りです。「日本における工業所有権保護に関する局が、農商務省の一局として置かれ、特許料、登録料を一般会計と混同させるようでは、内部の充実がはかれない」。
特許局が独立するとなれば局内に庶務部・検査部・審判部・陳情室などを置くことになり、そのためにはかなり大きな建物を新築しなければなりません。是清が色々と調べて米国特許庁の建物などを参考に部屋数や広さなどの図面を自分で書き、それを基に工部省御雇の建築技師ジョサイア・コンドル氏に設計を依頼すると、12万円の建築費が必要であるとのこと(明治19年の高橋是清 専売特許局長の月給が150円で、高峰譲吉次長のそれが100円の時代)。この予算を農商務大臣 黒田清隆と大蔵大臣 松方正義にかけあって承認を受けます。
仕上がった設計図を新任の農商務大臣 井上 馨に提出すると、質問されます。「こんな大きな建物をこしらえれば、いつまでたっても増改築の必要はなかろう」。これに対して是清は答えます。「まず今後20年です。20年経って、これでは狭いというようにならねば、日本発明界の進歩はおぼつかないと思います。東京見物に来た者が、浅草の観音様の次には特許局を見に行こう、というくらいの建物にしたいと思います」。井上大臣は大笑いして快諾します。日本の知的財産制度の発展にかける若き是清の期待と意気込みが伝わってきます。(出展:特許行政年次報告書2018年度版 「冒頭特集 - 明治初期からの産業財産権制度の歩み」、及び、「人生を逆転させた男・高橋是清」PHP文芸文庫)

是清の業績について更に特筆すべきこととしては、是清は、日銀副総裁・日銀総裁・大蔵大臣として、明治から昭和にかけての大きな3回の財政危機(日露戦争、金融恐慌、世界恐慌など)から日本を救いました。
特に、日本の運命をかけた日露戦争時(1904~05年)の財政危機に際しては、駐英財務官に任命された是清が欧米の銀行家たちと向かい合い、説得交渉を粘り強く積み重ねていく中、米国人銀行家のヤコブ・ヘンリー・シフの知遇と協力を得ます。その結果、ついに欧米の銀行家たちに莫大な日本公債発行(現在の金額にして4兆5,000億円)を引き受けさせ、財政危機を乗り切ることができたといいます。もしも是清の活躍がなければ、日本は財政難から戦争を継続することができず、ロシアへの屈服を余儀なくされ、日本は今とは全く違う国(またはロシアの一部)になっていた可能性が高く、その後の世界の歴史も全く違っていたかも知れません。あの激動・国難の時代に高橋是清という人がこの日本の中枢にいてくれたことは、とてつもない幸運でした。
これほどの偉業を成した方が日本知的財産制度の創始者で初代特許庁長官であったとは、驚くばかりです。

アジアの黄色人種国家が白人国家との戦争に勝利するというのは、当時の国際常識を完全に打ち破るものでした。「バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた」(ウィキペディア(Wikipedia)より引用)という事実に鑑みると、日本の勝利が世界史の一つの転換点であったとも言えます。
なお、日本政府の記録によると、日露戦争の戦費総額は約18億円です(1905年度の日本の政府歳入:約4億円の4.5年分)。そのうち外国からの借金が約13億円で、これを日本は82年間かけて1986年(昭和61年)に返済完了しました。第二次大戦中も英国と米国への返済を継続していました。

全身全霊で職務に臨み日本の危難を何度も救った高橋是清の在り方はまさに侍魂(さむらいだましい)というべきもので、これこそ、時代も分野も問わず、またあらゆるスキルと学問知識以前に、問題解決の任務にあたるすべてのプロフェッショナルにまず要求される最も重要な心得ではないでしょうか。

困難な状況に直面した際には、「こんな時、高橋是清ならどうするだろうか」、と幾度も自分に問いかけてみたいものです。

高橋是清の残した言葉からの抜粋です(「随想録」よりの引用)。

「その職務は運命によって授かったものと観念し、天命に安んじて精神をこめ、誠心誠意をもってその職務に向かって奮戦激闘しなければならぬ。いやいやながら従事するようでは到底成功するものではない。その職務と同化し一生懸命に真剣になって奮闘努力することで、はじめてそこに輝ける成功を望み得るのである。」

「盛衰朽隆は人生の常である。順境はいつまでも続くものではなく、逆境も心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめることも出来る。境遇の順逆は、心の構え方一つでどうにでも変化するものである。」

高橋是清の人生は、これらの言葉を体現するものでした。
高橋是清は、安政元年(1854)に江戸・芝露月町(しばろげつちょう)の江戸幕府御用絵師 川村庄右衛門の家に生まれました(実際の出生地は実家ではなく、母親の静養先である江戸・芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)にある母親のおばの家と思われます)。諸事情から是清は生後まもなく仙台藩士(足軽)高橋家の養子となりますが、高橋家では貧しいながらも大切に養育され、特に祖母の喜代子からは優しく厳しく大きな愛情を受け、武士として熱心に教育されました。是清は慶応3年(1867)に14歳で仙台藩派遣の留学生として渡米します。
それからの高橋是清は、社会の底辺(米国留学中の奴隷的労働、ペルーでの詐欺被害・事業破綻)を経験し、また、日本の頂点(日銀総裁、蔵相(1回の兼務を含む7回)、首相(兼蔵相))も経験し、信じがたいほどの波乱万丈・激動・七転び八起きの人生で知られます。
是清は、大きな包容力・強い精神力・大胆な行動力・楽天性を持ち(また大変な酒好きで)、豪放らいらくを地で行く人であり、政治家としては「財政の神様」・「日本のケインズ」と呼ばれ、また、その豊かな風貌から「ダルマ宰相」・「ダルマ蔵相」・「ダルマさん」の愛称で国民に親しまれていました。現代の政治家や経済人たちからも深く敬愛されています。
1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生した時、3度目の蔵相に就任した是清は、支払猶予措置(モラトリアム)を発動すると共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて預金者を安心させて金融恐慌をわずか44日で沈静化させた、というエピソードは有名です。是清はこんな言葉も残しています。「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、生きた財政は分からないものだよ。」
是清は、大きな包容力・豪放らいらく性・強靭緻密な知性・大胆な行動力を併せ持つ、全人格的な天才と言えます。

是清は、海外放浪(に近い留学)生活やいくつもの職業を経たのち、まず文部省、次に農商務省の官僚として商標制度・特許制度の制定に尽力し、また、外国の商標登録専売特許制度調査のために欧米視察を行ないました。そして、現在の特許庁長官にあたる農商務省専売特許局長及び特許局長の初代局長を務めました。

更に特筆すべきこととしては、是清は、日銀副総裁・日銀総裁・大蔵大臣として、明治から昭和にかけての大きな3回の財政危機(日露戦争、金融恐慌、世界恐慌など)から日本を救いました。
特に、日本の運命をかけた日露戦争時(1904~05年)の財政危機に際しては、駐英財務官に任命された是清が欧米の銀行家たちと向かい合い、説得交渉を粘り強く積み重ねていく中、米国人銀行家のヤコブ・ヘンリー・シフの知遇と協力を得ます。その結果、ついに欧米の銀行家たちに莫大な日本公債発行(現在の金額にして4兆5,000億円)を引き受けさせ、財政危機を乗り切ることができたといいます。もしも是清の活躍がなければ、日本は財政難から戦争を継続することができず、ロシアへの屈服を余儀なくされ、日本は今とは全く違う国(またはロシアの一部)になっていた可能性が高く、その後の世界の歴史も全く違っていたかも知れません。あの激動・国難の時代に高橋是清という人がこの日本の中枢にいてくれたことは、とてつもない幸運でした。
これほどの偉業を成した方が日本知的財産制度の創始者で初代特許庁長官であったとは、驚くばかりです。

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